ネヘミヤ記3章

              

3:1 こうして大祭司エルヤシブは、その仲間の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、扉を取り付けた。そしてメアのやぐらのところまで聖別し、ハナンエルのやぐらにまで及んだ。

 羊の門は、神殿のある区域の北側にあたります。そこには、祭司たちの部屋がありました。そのことは、二十八節の馬の門から北の方の修復についての記述に見ることができます。祭司たちの部屋のそばを祭司たちが修復している記述を見ることができます。

 そこは、大祭司の活動の場所である神殿が近くにあり、大祭司エルヤシブが修復に携わりました。それとともに、羊の門が表していることは、神に対する捧げ物です。大祭司は、その捧げ物を捧げる役割を担う者であり、教会の修復との関連で、祭司としての役割をまず回復することが求められていることを表しています。

 大祭司エルヤシブの家のそばの修復は、二十八節以降の記事から、他の人々が担っており、大祭司は、その役割の正常な実現に心を砕いたことが伺えます。

 門と城壁は、再建され、聖別されました。神様に仕えることが第一とされ、神様のために聖別されました。

 「メア」→「百」聖別の比喩。

 「ハナンエル」→「神は恵む」

 ここには、聖別することが主題として取り上げられています。羊は、主イエス様を表しています。この方は、神にご自分を捧げられた方です。聖別の完全な模範者です。

 聖別に対して神は恵みを与える方です。

3:2 その傍らではエリコの人々が建て、その傍らではイムリの子ザクルが建てた。

 「エリコ」→「月」かつて呪われた町。今は、イエス様の栄光を反映する者。

 「ザクル」→「思い出す」

 「イムリ」→「言う、語る」

 続きを再建することは、イエス様に倣って歩み、身を聖別する信者のことを表しています。

3:3 魚の門はセナアの子らが建てた。彼らは梁を置き、扉、錠、かんぬきを取り付けた。

 「魚」→魚は、食物として示されています。これは、水中に住む生物のうち、「うろことひれ」のあるものを指しています。それらがないものは、食べてはならないからです。うろこは、水中にあって守りを表しています。ひれは、水中を泳ぐためのものです。水は、教えを表していて、多くは御言葉を表しますが、御心に適わない教えをも指します。そのようなものから身を守り、そのような教えに惑わされず進むことを表しています。

 これは、正しい信仰の比喩です。教えを堅く守ることを表しています。

 「セアナ」→「棘、突き刺す」

3:4 彼らの傍らではハ・コツの子ウリヤの子であるメレモテが修復を行い、その傍らではメシェザブエルの子ベレクヤの子であるメシュラムが修復を行い、その傍らではバアナの子ツァドクが修復を行った。

 「メレモテ」→「高い、上げられた」

 「ウリヤ」→「主の火」

 「コツ」→「棘」

 「メシュラム」→「完全にされる」

 「ベレクヤ」→「主は祝福される」

 「メシェザブエル」→「主は、救いたもう、すなわち助け出す」

3:5 その傍らではテコア人たちが修復を行ったが、彼らの貴族たちはその上役に頭を下げることはなく、工事に協力しなかった。

 「テコア」→「吹く」

 「貴族」→「力ある人」

 「上役」→「主」

 「頭を下げる」→「首を差し出す」

 「テコア人たちの力ある人々は、その主人の仕事に首を差し出すことをしなかった。すなわち、ともにくびきを負い働くことをしなかった。協力しなかった。」

 働く能力のある人々が、主人とは同じ心ではありませんでした。

3:6 エシャナの門はパセアハの子エホヤダと、ベソデヤの子メシュラムが修復を行った。彼らは梁を置き、扉、錠、かんぬきを取り付けた。

 「エシャナ」→「古い」

 「エホヤダ」→「主は知っている」

 「パセアハ」→「弱々しい」

 「メシュラム」→「完全にされる」

 「ベソデヤ」→「主の助言」

 古い門は、古いという語から、昔からのものということで、真理と解釈される場合が多いです。しかし、古いという語の用例は、収穫の古いものを指す場合が多く、神様の祝福の実の多さを表現しています。

3:7 彼らの傍らでは、ギブオン人メラテヤ、メロノテ人ヤドン、それにユーフラテス川西方の総督の管轄に属する、ギブオンとミツパの人々が修復を行った。

 「メラテヤ」→「主は、救われる」

 「ヤドン」→「告白する。感謝に満ちた」

 彼らは、ネヘミヤとは別の総督の管轄に属していましたが、彼らは、エルサレムに来て働きました。

3:8 その傍らでは金細工人のハルハヤの子ウジエルが修復を行い、その傍らでは香料作りの一人ハナンヤが修復を行った。こうして、彼らはエルサレムを、幅広の城壁のところまで修復した。

 「ウジエル」→「神の力」

 「ハルハル」→「主の怒り」

 「ハナンヤ」→「主は恵まれる」

 金細工は、義の実を表しています。

 香料は、御心に従って歩む歩みが神の目に適って、喜ばれていることを表しています。

 これらは、古い門との関連で記されていて、収穫とは、義の実であり、キリストを表すことです。

3:9 その傍らでは、エルサレム地区の半区の長、フルの子レファヤが修復を行った。

 「レファヤ」→「主は癒される」

 「フル」→「白いもの」

3:10 その傍らではハルマフの子エダヤが自分の家のそばの部分を修復し、その傍らではハシャブネヤの子ハトシュが修復を行った。

 「エダヤ」→「主は褒め称える」

 「ハルマフ」→

 「ハトシュ」→

3:11 その続きの部分は、ハリムの子マルキヤと、パハテ・モアブの子ハシュブが、炉のやぐらと一緒に修復した。

 「炉」は、神様の裁きを表しています。やぐらは、見張りのためです。神様が裁きのために見張っていることを表しています。

 それは、実を結ぶことと関係していて、御心に適わないことに対する裁きを表しています。

3:12 その傍らでは、エルサレム地区の残りの半区の長、ハ・ロヘシュの子シャルムが、自分の娘たちと一緒に修復を行った。

 娘たちもその力を用いました。

3:13 谷の門はハヌンと、ザノアハの住民が修復を行った。彼らはそれを建て直し、扉、錠、かんぬきを取り付け、糞の門までの城壁千キュビトを修復した。

 数千キュビト=650m

 谷は、ヒノムの谷に下る門のことで、谷は、水の流れる所で、そこで教えを受けることを表しています。いわば、御言葉に対する謙りを表しています。

3:14 糞の門はベテ・ハ・ケレム地区の長、レカブの子マルキヤが修復した。彼はそれを建て直し、扉、錠、かんぬきを取り付けた。

 「糞」→「灰」

 糞あるいは灰は、不要な物を取り除くことを表しています。神の前には、価値のないものを表しています。

 このことは、次の泉の門が表す聖霊と関係していて、聖霊に満たされるためには、不要なものを捨てる必要があります。

3:15 泉の門はミツパ地区の長、コル・ホゼの子シャルンが修復した。彼はそれを建て直し、屋根を付け、扉、錠、かんぬきを取り付けた。また、王の園のシェラフの池の城壁を、ダビデの町から下って来る階段のところまで修復した。

 「シェラフの池」→「シロアムの池」

 泉は、聖霊の比喩です。自分のうちにある価値のないものを捨て、聖霊に満たされることを表しています。

 シェラフの池は、遣わされた者の池という意味で、主イエス様を表しています。池は、御言葉の比喩で、王としてのイエス様の言葉を表しています。

 聖霊に満ちた者は、主イエス様の言葉のうちに生きるのです。

 王の園は、王が階段を降りて来られるのです。主がともにいてくださることを表しています。

3:16 その向こうでは、ベテ・ツル地区の半区の長、アズブクの子ネヘミヤが、ダビデの墓地のそばまでと、人工貯水池までと、勇士たちの家のところまでを修復した。

 ダビデの墓地は、ダビデの死を表しています。それは、主イエス様の死の比喩です。それは、バプテスマが表しているように、自分に死ぬことすなわち内住の罪に対して死ぬことを表しています。

 人工貯水池は、水を貯めるために作られました。その水は、一人一人が御言葉を自分のものにすることを表しています。

 そして、力ある者として立つのです。真の力は、主のあります。

3:17 その向こうでは、バニの子レフムなどレビ人たちが修復を行った。その傍らでは、ケイラ地区の半区の長、ハシャブヤが自分の地区のために修復を行った。

 レビ人は、神に仕える人の比喩です。力ある者たちは、そのような働きをするのです。

 また、自分の地区のために働く長がいました。彼らは、委ねられた人たちを監督する働きの比喩です。主に自分を捧げた人たちの働きの比喩が示されています。

3:18 その向こうでは、ケイラの残りの半区の長、ヘナダデの子バワイなど、彼らの同僚たちが修復を行った。

 長やその同僚たちも働きに与りました。

3:19 その傍らでは、ミツパの長、ヨシュアの子エゼルが、城壁の曲がり角の隅にある武器倉に向かう上り坂のそばで、続きの部分を修復した。

 また、武器庫は、戦いの武器を表しています。主に身を捧げ人たちは、戦う者でもあります。

3:20 その向こうでは、ザカイの子バルクが続きの部分を、城壁の曲がり角から大祭司エルヤシブの家の門のところまで熱心に修復した。

 彼には、熱心がありました。大祭司は、神への礼拝を表しています。

3:21 その向こうでは、ハ・コツの子ウリヤの子メレモテが続きの部分を、エルヤシブの家の門からエルヤシブの家の端まで、修復を行った。

3:22 その向こうでは、低地の人々である祭司たちが修復を行った。

 祭司たちは、大祭司とともに働く者たちのことで、神様に対する捧げ物や教えをなす働きを表しています。

3:23 その向こうでは、ベニヤミンとハシュブが自分たちの家のそばの部分を修復した。その向こうでは、アナネヤの子マアセヤの子アザルヤが自分の家の近くを修復した。

 自分たちの家は、家庭のことを表しています。主に身を捧げた者たちの働きの領域は、家庭でもあります。

3:24 その向こうでは、ヘナダデの子ビヌイが続きの部分を、アザルヤの家から城壁の曲がり角の隅まで修復した。

3:25 ウザイの子パラルは、城壁の曲がり角の部分と、監視の庭のそばにあって上の王宮から突き出ているやぐらを修復した。その向こうでは、パルオシュの子ペダヤと、

3:26 オフェルに住む宮のしもべたちが、東の方の水の門と突き出ているやぐらのそばの部分までを修復した。

 監視の庭、突き出たやぐらは、敵に対する警戒を表しています。それは、王宮から突き出ているように、主のための監視です。時として、主のためでない、人間的な思いから、兄弟姉妹を監視することがあるのです。

 オフェルは、山あるいは丘を表していて、高い場所です。そこに住む宮のしもべは、高いところを歩む神の仕え人を表しています。

 水の門は、御言葉よる教えを表しています。東の方は、神様の栄光の現れの方向です。その教えは、神からのものです。御言葉が神からの言葉として正しく扱われなければならないのです。

 なお、「修理した」という動詞は、二十四節に一度だけ記されていて、他の節では原語にはありません。しかし、訳が補足しているようにいずれも修理した記録であるのです。水の門に関して「修理した」という動詞が記述されていないので、修理しなかったという理屈は成り立ちません。「修理した」という言葉がないことを根拠に神の言葉を表す水の門は、修理されなかったとし、それは、神の言葉は、修理の必要がないとする解釈には無理があります。神の言葉は、揺るぐことはありませんが、ここでは、神の言葉を神の言葉として扱わない霊的な堕落からの回復を取り扱っているのであり、神の言葉そのものではなく、それを扱う者が正されなければならないことを教えているのです。

3:27 その向こうでは、テコア人が、突き出ている大きなやぐらのそばからオフェルの城壁までの続きの部分を修復した。

 「オフェル」→山、あるいは丘。御言葉に教えられ、高いところを歩むのです。 

3:28 馬の門から上の方は、祭司たちがそれぞれ自分の家のそばの部分を修復した。

 馬の門は、戦いの比喩です。それは、主の戦いを表しています。裁き主としての主です。

 そこから上の方は、神殿のある領域で、祭司たちの住まいがありました。彼らは、自らの家の近くを修復しました。彼らは、主に仕える者であり、自らの家庭も立て直す必要があります。

3:29 その向こうでは、イメルの子ツァドクが自分の家のそばの部分を修復した。その向こうでは、シェカンヤの子、東の門を守る者シェマヤが修復を行った。

 東の門は、主の栄光か入ってきた門です。

3:30 その向こうでは、シェレムヤの子ハナンヤと、ツァラフの六男ハヌンが、その続きの部分を修復した。その向こうでは、ベレクヤの子メシュラムが自分の部屋のそばの部分を修復した。

3:31 その向こうでは、金細工人の一人マルキヤが、召集の門の向かい側にある、宮のしもべたちや商人たちの家のところまでと、角の二階の部屋のところまでを修復した。

 招集の門は、主のもとに集められることの比喩です。基本的には、イスラエルが集められることを表しています。

 金細工人は、義の実を結ぶことを表しています。それは、招集の時に報いをもたらすからです。

 宮のしもべたちは、主に仕えることを表しています。主に仕えることだけが報いをもたらすのです。

 商人は、王が留守の間、商売して金を儲けるしもべのことを表しています。それも、主に委ねられたことを果たすことを表しています。

 私たちも、主に集められるとき受ける報いに関して覚えることができます。

3:32 角の二階の部屋と羊の門の間は、金細工人と商人たちが修復した。

 二階の部屋は、上の部屋のことで、御国の比喩です。主は、二階の部屋で最後の晩餐を守りました。御国で食事をすることの比喩です。彼らの報いは、御国において受けます。